吃音 日々の思考 雑記

「そうだ 吃音、知ろう。」

2024年2月14日

JR東海の『そうだ 京都、行こう。』という名コピーに初めて触れたのは、たしか小学生のとき。テレビCMを通してのことだ。

当時、関東に住んでいたわたしにとって、京都は遠い。親戚も西側にはいなかったので、未知の領域だった。

そんなわたしに、ぽん、と差し出される「そうだ 京都、行こう。」のメッセージ。

“え、それでいいの。京都って、そんな簡単に行っていいの。行けちゃうの?”

CMのBGMは、"私のお気に入り”。

「ブンチャッチャッ♪ ブンチャッチャッ♪」と軽やかなワルツのリズムにのって、京都の魅力的な映像がさらさらと流れ、最後には「チャーラーララーラーララーラーララー♪」といかにも楽しそうにわたしたちを京都へ誘う。ほらほら、おいでよ。

えー、なんか遠いと思ってたけど、そんな、思い立ってふらっと行っていいのか。そっか、ちょっと行ってみようかな京都。

CMが繰り返されるうち、そんな気持ちになるから不思議である。


そんな気軽さで今年、「吃音(きつおん)」のことをちょっとでも学んでみたいなと思っている。

きっかけはまあわかりやすく、今年7歳になったばかりの娘が、吃音とつきあっていくことになりそうだからだ。

娘が吃音だとはっきり認識したのは5歳、年長のころ。その後小学校入学と同時に、地方都市のこども病院の耳鼻咽喉科内にある、言語聴覚士さんとの面談を開始して、その後も隔月くらいで定期的に通っている。

だからまあ、はっきり吃音だと認識してからもう1年ほど経つわけだけれど、言語聴覚士さんとの面談にはちゃんと通いつつも、なぜかそれ以外で能動的に書籍を読んだり、積極的に情報収集したりはすることはないままに過ごしてきてしまった。

それは単にわたしがぐうたらぷーだという側面はもちろんあるのだが、もうひとつには、まだ言語聴覚士さんとの面談に通う前の体験も影響していたと思う。

それはまだ子が3、4歳くらいで「あれ?なんか最近ちょっとどもることがあるかも……?」「吃音の傾向あるのかな……?」という疑い段階のときのこと。

こども病院の別の科の定期観察(神経科/乳児期からの発達遅滞関連の経過観察)で他に気になることがないか聞かれたので「ちょっとどもったりすることがあって気になっていて……」と相談したら、「まあ心配ないと思うので様子を見ましょう」との返答。

さらに「お母さんがどうしても相談したいということなら紹介状は出せますけど、療育などはいまどこも混んでるので、予約とっても4ヶ月待ちとかなんですよね…」とやや面倒そうに言われ、早期に相談を開始することをまったくすすめられなかった。

でもやっぱり親としては日々接していて不安があったので、インターネットの波で情報収集をしてしまう。すると数多く出てきたのは「幼少期は本人に意識させることで悪化するので自覚させないほうがいい」という、いま思えば明らかにひと昔前の、現在では誤りとされる情報たちだった。

ひとつのサイトだけの情報は鵜呑みにしないように気をつけていたけれど、複数のサイトを見比べても当時は同様の主張が展開されていたため、素人目にそれを信じて、子には意識させないようにと気をつけつつ、貴重な年長期を過ごしてしまう。

しかし卒園間際の定期観察でやっぱりどうしても気になってこちらから不安を再び伝えたら(医師が前回と別の方に変わっていたことも大きいと思う、この方には感謝している)、ようやく言語聴覚士の方へのアポにつながり、なんとか4月に面談ができることになった。

後になって言語療法士さんに聞けば「もっと早く通っていれば」なんて言われたりもして。

はー、なんじゃそらー。

ほらねインターネットの情報なんて、素人リサーチの情報なんてもう絶対鵜呑みにするもんか、専門家と直接話すのが一番じゃー、しかも専門家といっても、同じ医療系の専門家でも別の科の医師じゃ全然重要性わかってなかった人もいるしだめだこりゃ(そういや斜視&弱視リスクのときもこの流れあったわデジャブかーい! )、もう言語聴覚士さんの話だけ聞いておこう、という、ある意味シャットダウンモードに至っていたのでありました。

はっ、つい、“思い出しぷんぷん”してしまった。いかんいかん。戻そう。

……まあ、すべて、ほかに信用に足る書籍を探そうともしなかった怠慢といってしまえばそれまでの、壮大な言い訳である。


まあそんなこんなと、もうひとつ言うとすれば娘は他にもいろいろと手術や入院、多々の科にわたる病院通いを経てきている経緯もあり、"命に別状のない”吃音というものに対して、わたしがよくいえばポジティブに、悪く言えば軽く、捉えていたのかもしれない。

(この”命に別条はない”というのは、ある意味ではそうなのだが、また違うある意味では命すらおびやかすものになりうる可能性があるというのは、書籍などに接してから認識することができた。が、昔は認識できていなかった。)

しかし、小学生になり、環境が変わって、友達どうしだけで遊びに行ったりという機会も増えてくると、やっぱり彼女の形成する社会が健やかであってほしいなという思いがじわじわと強まってくる。

幸い娘は小学校入学当時に言語聴覚士さんとの面談を開始できたので(このタイミングを逃していたらと思うとゾッとする)、言語聴覚士さんから学級担任の先生にお手紙を書いてもらい、娘本人にも確認して希望を聞いたうえで、入学した4月のうちに「◯◯ちゃんはうまく言葉が出ないことがあること」や「お友達のはなしは最後までしっかり待って聞きましょう」ということについて、クラス全員向けにオープンに話してもらうことができた。

多数の吃音児童と接している言語聴覚士さん曰く、小学1年生は最初に説明すれば「ふーんそうなんだな」「はーい」と素直に聞いてくれるのだそう。今、吃音の書籍を何冊か読んでみて思うことは、「最初から、そういうものだと知ってもらうこと」の重要さ。

だから本当に、小学校入学の新学期にあのアナウンスをしてもらうことができて、本当によかったと思っている。

そのおかげで、今のところ娘は楽しそうに学校に通っている。もちろん年齢を重ねるなかで状況が変わる可能性は大いにあるとも思っているので、これで安泰だ〜、という気持ちは全然ないのだけれど。

ただ私は隠すべきことだとはまったく思っていなくて、むしろ本人の許可が得られた範囲でなら、普段から、いろいろなところでなるべくオープンに話題にしていきたいと思っている。

あくまでわたしの感覚としては、今のところ、「あ、卵アレルギーあるから卵料理食べられないんだよね〜」「あ、そうなんだ〜」くらいの情報と並列に捉えている。だから、受け手にもそういう感覚でカジュアルに知ってもらえたらいいのになー、と感じている。


ええと、何を書こうとしていたのだっけ。

そうそう、この記事にはそもそも、わたしがなぜその1年間ぼんやりと気にはなりつつも吃音について能動的に勉強をしてこなかったのに、2024年はそこにやる気を出しているか、を書こうと思ったのだった。

なぜかというと、今年は吃音について、わたしもほそぼそとでも、自分なりに発信していきたいと思っているからである。

なぜ発信したいと思うようになったかというと、わたし自身が、「子が吃音になってはじめて知ったこと」があり、「それ、子が吃音になる前からもっとカジュアルに知っていられたらよかった」と思うし、「いまは関係ないやと思ってる人にもカジュアルに知っておいてほしいな〜」と思ったからだ。

その先にはもちろん、子がこれから成長していくに従って、少しでも過ごしやすい環境を用意できればという思いがある。

わたしは子どものころ、電車のなかで見慣れない動きや舌打ちを繰り返している人を見て、「わ、なんか変な人がいる……ちょっと近づかないようにしよう」と思ったことがある。

大人になって知識を身につけてから、ああ、あれはチック症の方だったのだろうな、と思い返した。

当時の自分はそういった病気があることも知らず、偏見のかたまりだった。

あのとき、あの方はどういう思いで窓の外を見つめながら座っていたのだろう。そう思いを馳せると、当時の自分の態度が猛烈に恥ずかしくなった。とても反省した。

人は未知のものに対して不信感や恐れを抱く。よくわからないものから距離をとる。たとえ日頃、悪い人じゃなくてもだ。

むしろ自分のふるまいや発言が「失礼」にあたるかもしれないという不安から、腫れ物に触るような対応になってしまうことだってある。私にもまだまだ、たくさんあると思っている。

でもそれはつまり、正しく「知って」いれば、怖くないということ。どう接すればいいか知っていれば、自分のふるまいにも自信が持てる。

そして吃音の場合、それは実にシンプルだとも思う。もしかしたら他のケースでも、そうなのかもしれない。

当事者の精度で世界を捉え直すことはとても複雑で、到底できないと感じているけれど、いち、「周りにいる人としてすべきこと」はとてもシンプル。

未知の病気や障害に出会ったら、「2,3の一般的な基礎知識を知る」こと。「それがすべてではなく、同じ病気や障害でも個々人によって対応は違う」ことを念頭に置いて、自分の浅い知識で決めつけないこと。だから関係性によっては「本人や身近な人に、率直に、どう接したらよいかをたずねてみる」こと。

未知に接することはなくならないけれど、心構えとしてまずそれを持っておくだけでも、“怯え”が和らぐと感じている。


具体的に、わたしが、自分の子が吃音になって初めて知ったこと。

  • 吃音は、言葉がなめらかに出ない発話障害であること。
  • 「ゆっくり言って」「落ち着いて」「緊張しないで」「リラックス」などの声かけはしないほうがよいこと。するのはかえってプレッシャーになり、逆効果にもなること。(参考文献:多数)
  •  言葉につまったとき、基本的にはただ「待つ」のがよいこと。ただ、吃音当事者のなかでも「言い終わるまで待ってほしい」人や「先読みして言葉を補ってほしい」人などさまざまであること。(参考文献:多数)
  • かつては「どもりは伝染る」「親のしつけのせい」など根拠のないデマが広まっていた。現在も原因は直接的に解明はされていないが、”発話に関わる神経系の問題(本人が生まれもっている体質)が疑われている”そう。(参考文献:『ことばの教室の吃音指導』p93)
  • 「吃音を意識させないほうがよい」は古い情報で、現在は誤り。いつまでも見て見ぬふりをしていると「触れてはいけない話題」と暗黙の意識を子どもに持たせることになってしまうことも。言葉がうまく出ないことがあるのは吃音というもので、本人のせいではないこと、オープンに話題にしていくことで悩み相談がしやすくなる可能性。(参考文献:『吃音の世界』p69)

わたしもまだまだ勉強中の身だけれど、このあたりは今まで読んだ近年発行の5冊くらいで、わりと共通していると思う。

特に2つめの、「ゆっくり言ってごらん」や「落ち着いて」などの声かけは、最初に言語聴覚士さんから聞くまで知らず、ときどきしてしまっていたので、衝撃だった。


知らないとこわい。知れば、こわくない。

改めてもう一度書くけれど、私は、子に吃音があることを周りの人に積極的に言っていきたいし、それもカジュアルに言っていきたいなと思っている(それをやっていいかについて、娘本人にも説明し、OKの範囲も確認した)。

だから趣味の延長とかけあわせて、関連する歌や絵本をつくりたいなとも考えている。いま書いているこういう雑記も、ちょっと溜まったら、ライトなZINEにまとめてみてもいいかもしれない。

「そうそう、うちの子、吃音があってさ」

というと、今はちょっとみんな最初身構えるんだけど、そしてそれは、きっと私も逆の立場だったらそうだと思うのだけど。

そんなときに、「それでさ、吃音とかって知らないじゃん!わたしも子がなるまでは知らなくってさ。で、歌と絵本つくってみたから、よかったら聞いてみて〜♪」と、QRコードの入ったカードでも軽やかに渡せるようにしたいのだ。

彼女が育っていく世代は、また、今の若者たちからもさらに、変わっていくはず。

障害の「害」は社会の側にある、という論を聞くことがあるけれど、実際、まわりの人の理解が進めば、吃音当事者の症状がまったくかわらなくても、見えてくる世界は変わる。


気をつけなければいけないと思っていることは、親のわたしが突っ走って、娘の気持ちを置き去りにすること。

いまは7歳だけれど、これから少しずつ成長するに従っていろんな気持ちに変化が出て、すれ違うようなことがあれば、その都度話し合いながら柔軟にやっていきたい。子が息をしやすくするためにと思ってやることが、いつのまにか本人のストレスになっては本末転倒だからね。

いずれにしても、まずはもう少し、インプットが必要だ。読んだ本のことやそれらを読みながら感じたことなども少しずつ、備忘録としてあげていきたい。

(おわり)


▼ 吃音関連書籍の読書記録(随時追加)

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