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『こどもの吃音症状を悪化させないためにできること─具体的な支援の実践例と解説』(堅田利明/海風社)読書記録

「そうだ、吃音についてもうちょっと知ろう」読書、5冊目。

これまでの読書記録はこちらから。

今回ご紹介する5冊目はこちらの、『こどもの吃音症状を悪化させないためにできること─具体的な支援の実践例と解説』(堅田利明/海風社)です。

「吃音理解授業」についての投稿をどなたかのSNSで見かけて、吃音理解授業についてよりくわしい内容を知りたい方はこちらを参照ください、と紹介されていたのが本書だった。すぐに注文した。

サブタイトルに「具体的な支援の実践例と解説」とあるように、わたしが今まで読んだどの本よりも、小学校での具体的な実例が満載で。新学期が始まるこのタイミングで読むことができて本当によかった。


実例では、一人のエピソードについて、言語聴覚士、本人、その保護者、担任教師など、異なる視点で紹介されているものが多いことが印象的だった。指導側だけでなく、本人の視点もあわせて紹介されていることは、伴走がひとりよがりでないことを説得力をもって伝えてくれる。

だんだんと「知っている側」の視点になってきてしまっている自分にとっては、担任の先生方の当初の吃音に対する捉え方(誤解)も「ああ、そういう認識でいる先生が多いんだな」と参考になった(気に留めるほどのものではない、など)。

また本書を読んで、わたしが個人的に、これまで吃音に関する読書や情報収集、夫との話し合いなどのなかで抱えていたもやもやが2つ、すっきりした。

特に2点目は、個人的に今まで迷いがあった部分について背中を押してくれる記述があり、いち保護者としてたいへんに救われた。以下にくわしく書きとめておきたい。


もやもや解決の1点目は、吃音の理解・啓発とひとことで言っても、周りの人に伝える際に何をどう伝えるのか、という点。

「私には吃音があります」「最後まで話を聞いてください」「マネしたり笑ったりしないでください」とは違う伝え方があるのではないかと私は思っています。(p29)

という一文に続いて、

  • 自然な連発・伸発・難発を伴った話し方をする人は世界中に一定数いるという事実
    特徴的なこの話し方はその人の話し方であり、決して話すのが下手であったり劣っていたりするわけではないこと
  • 自然な連発・伸発・難発はいつも同じではなく自然に増減すること、あわてて話しているのでも緊張しているのでもないこと、緊張しているときのほうが吃音症状は出にくいという人もいること
  • 連発を出さないようにしようと頑張るとやがて声が出ない(難発の人は今よりも声が出ない)状態になってしまう、だから連発を伴った話し方をそのまま聞いていてほしいということ

    こうした事柄を丁寧に伝えていくことが吃音の理解へとつながります。(p29-30)

と、具体的にどのようなことを伝えたらよいかが述べられ、「吃音を知ってもらう」だけでなく「吃音を理解してもらう」ことが大切だと書かれている。

個人的にも、啓発資料などでは「最後まで話を聞いてほしい」「マネやからかいはしないでください」という注意事項に重きが置かれているような印象があり、なんだか少し怖いアプローチというか(いや、確かに重要なのはそうなのだけれど)、その部分が目立ちすぎるのは高圧的にも感じられないか?という感覚があったので、それよりは本書で紹介されている「その人の話し方」「そのまま聞いてほしい」という表現のほうがしっくりくるなと感じた。


少し横道にそれるけれど、上記の箇所にかぎらず、吃音、なかでも連発は「その人にとっての自然な話し方」である、という表現が本書ではたびたび登場している。

一方、わが子に関していうと、娘は現在、難発や難発気味の連発とみられる症状が多い。

ただ、幼少期もあまりタタタッ、という自然で軽快な連発を聞いた覚えがあまりなく、それが、連発から難発までが急速に進んだ例なのか、もしくは本書にも紹介例があったように発吃から難発(自然な難発)の例だったのか、今ではわからないのだけれど。

ひとくちに難発といっても、明らかに苦しそうで、随伴症状も出ているときの難発と、言葉が出てくるのに時間がかかっているけれど、あまり苦しそうには見えない難発があることは見てとれるので、後者のときは私も「いまの本人にとっての自然な話し方なのかもな」という気持ちで見守りつつ、話の内容のほうに耳を傾けるようにしている。

ただ、本書を読んで、そういえば本人には「言葉がでないときがあるからお友達に待ってもらう(難発への対応)」ことがもう当たり前になっていて、その点(連発)にフォーカスをあててはっきり説明したことはなかったなと思った。

もしかすると本人が連発を悪いことだと思っている可能性もゼロではないし、一応知っておいてほしいなと思ったので、読んだ夜、お風呂あがりに体をふきながら伝えてみた。

「今日、お母さんが本でひとつ、吃音について勉強したことなんだけどね。あ・あ・あ・ありがとう、みたいに連続するのを連発っていうんだけど、自然に出るそういうあ・あ・あ・ありがとう、っていう連発は、我慢しないで、どんどん出しておしゃべりしたほうがいいんだって」

「もし、◯◯ちゃんが、そうやってどもっちゃうかも、そうならないようにしよう、って思っているとしたら、お母さんは、繰り返してもつっかえても、どんどん、たくさんおしゃべりしてほしいからね。なぜなら、それが◯◯ちゃんの話し方だから、それでお話してほしいし、お母さんは◯◯ちゃんのお話聞くのがすっごい好きだから」

本人とは吃音の話をオープンにしているし、クラスメイトにも伝えているので本人に聞いても「みんな待ってくれてる」とのことだけれど、内面的に本人が吃音をどう捉えているかについては、きっと今でもいろいろと感じていることはあると思う。ただ、今は彼女に聞いてみても、頭の中を言語化するのが追いついていない感覚があるので、成長とともにたびたび聞いていきたい。


もやもや解決の2点目は、以下のような部分である。3箇所ほど、引用させていただく。

吃音のある子どもの周りの人たちに吃音について理解してもらうことは、それが初めての試みの場合、しかも子どもが10歳を過ぎた比較的高い年齢になるとハードルが高くなります。「みんなに伝えた方が気持ちも楽になると思うけど、どうする?」といった問い方を吃音のある子どもにするのではなく、どうして理解・啓発が必要なのか、実行した後は暮らしがどうなるのかを具体的に示し、躊躇しがちな気持ちをしっかりと後押しする働きかけが重要です。(p64)

(「分かってくれている子も多いと思うので学級には事前に伝えないでほしいというのが本人の希望です」という過去当時のやりとりを示す本文への指摘コメントとして)

「周りは、本人の希望を尊重すべきであると考えてしまいがちになります」(p201)

お子さんの中には、クラスに伝えることのイメージが持ちにくく、乗り気ではない気持ちを示す子がいることはむしろ自然です。これまで先生に伝えてもらってよかったという経験がなく、イメージが持てない子には、「大丈夫、先生たちに任せて!」と積極的に導いてあげることも時には大事だと今は感じています。(p248−249 )

これ!この考え方! 誰かに背中を押してほしかった。本書の考え方を読んで、個人的にとてもすっきりした。

実はこの部分は、夫と話すなかでたびたび意見が噛み合わずにずっともやもやしていたところ。

夫は何事も、基本的に本人の意思が大事という考え方。もちろん私も、本人の意志を尊重することはとても大切だと考えている。ただ小学校低学年である娘に対しては、成長とともにいろいろな物事について知識を身につけ、自分なりの考え方が確立するまでは、むしろある程度親の考えに基づいて介入したほうがよいことも多いのではないか、と考えている。

たとえば「クラスのみんなに言ってほしい?ほしくない?」という問いかけに対して「言わなくていい」といわれて単に「そっか、本人がそう言うなら、じゃあやめておこうか」というのは、私は違和感があった。

その違和感は、複数の書籍を読んで知識をつければつけるほど、早い段階から周囲に前提として知ってもらうことのメリット(それは本人もそうだし、これからの社会全体にとっても)を痛感するようになり、強まっていった。

夫が「本人の答えありき」だとすると、わたしは「なるべく周囲にひとりでも多く吃音というものを知ってもらえるように説得したほうがよいのではないか」という立場への思いを強めていて、そこがいつも噛み合っていない感覚があった。

でも、現代において「本人の意志を尊重」というのは強烈なパワーワードである。親が、自分の考えに基づいて説得していいのか、子の素直な意思を変える方向に話をすることがよいのか、は確信をもてずにもやもやしていた。そのもやもやが、上記の引用部分を読むなかで「ああ、そうだよな!やっぱりそれで、よかったんだ」と晴れていくようだった。


幸い子は、小学校1年生の4月に言語聴覚士さんが本人に聞いてくれたときには「言っていいよ」と言ってくれたので、担任の先生を通してクラスメイトにも伝えてもらい、楽しい1年間を送ることができていた。

ただ今回、2年生に進級するにあたっては言語聴覚士さんも積極的にそのあたりをフォローしてくれることはなかったので(面談は隔月程度)、私がひとりで気をもみ、1年生の学期末に担任の先生に相談し、新しい担任の先生に新学期早々、面談のお時間をいただけるようにお願いをしておいた。

そして担任の先生だけでなく、クラスメイトへの説明についても昨年同様行ったほうがよいと考えた。事前に、本人にまず聞いてみたら、最初の答えはこうだった。「べつに言わなくても、みんな待ってくれてるから大丈夫」。

ただ、ここで、「本人がそう言うのだから、それはそのまま尊重しないとね」と自分の知識に基づく考えを押し込めて「そっか。じゃあ今年は言わなくてもいいか」とはせず、

「そっか。1年生のときはみんな待ってくれてうれしかったもんね。でも、2年生になるとクラスが変わって、1年生のときは2組さんや3組さんだった(違うクラスだった)お友達もたくさん入ってくるから、◯◯ちゃんがそういう話し方なんだよ、って知らないお友達もたくさんいると思う。だから、これがふつうなんだよー、って知っておいてもらったほうが、◯◯ちゃんも安心してお話とか発表とかできるんじゃないかなと思ってて。だから、みんなにもお話してもらうように、先生にお願いしてもいいかな?」

と、娘にも友達の顔が浮かぶレベルで具体的に説明したら、特に深く迷う様子もなく、ころっと、「うん、じゃあそうする」との返事に変わった。

さらに、新学期が始まってすぐ、担任の先生との面談に行く日の朝にも娘に改めて、「今日、先生に吃音の説明をして、みんなにもお話してもらうのをお願いしてくるね」と言っておいたら、帰ってきたときには娘のほうから「先生、お話してくれるって?」と聞いてくれ、少し楽しみにしているような様子だった。

実際その翌日、朝の会で先生からお話してくれたそうで、子は「うれしかった」と言っていた。たぶんそれは、1年生のときに周りのお友達も吃音のことを知っていてくれて、楽しく過ごせた記憶がすでにあるからではないだろうか。

この一連の流れからも、本人の意思を尊重するといっても、それはただ「クラスや先生に言う?言わない?」という問いかけに対する答えを鵜呑みにすることではない、と考えている。

特に小さい子は、周りのみんなにそれを伝えることでその結果どんな環境になるのか、そのフレーズだけでは具体的なイメージがわからないのだ。

だから先の引用部分のように、「どうする?」という問いかけではなく、「後押し」してよいのだと明記してくれた本書に、夫とも意見が割れていた私はとても救われた。ありがたかった。

「たとえば、みんなに説明しなかったら、違うクラスだったお友達に『どうしてそういう話し方なの?』って聞かれて、そのたびに自分で答えなければいけなくなるかもしれないよね」と言葉にすることも、(以前はそこまで介入していいのかという気持ちがあったけれど、)本人により具体的なイメージをもってもらうために、時には必要なのだと思えるようになった。


小学校の先生との面談や娘への事前質問をしていたのは本書を読む前だったが、その後まもなく本書を読んだおかげで、私は確信を得て、新学期というタイミングにあわせて、ほかの習い事の先生方や関わっているコミュニティの方々にも、吃音の啓発リーフレットなどを渡そうと決心することができた。

もちろん都度、事前に本人へ話し、了承を得ている。

ただそのときの聞き方は、少し変わった。

例えば「ピアノの先生にも一回ちゃんとお話しておこうと思うんだ」と話をするとき、娘から「でも、ピアノの先生は、待ってくれているよ」と娘に言われたら、以前だったら「やっぱりいまさら伝えるのもおかしいかな。困っていないなら、いいのかな……」と迷いが生じてしまっていたかもしれない。

でも今は、「うん。先生は待ってくれていているんだね。よかった。ただ、吃音ってね、お母さんもそうだったんだけど、大人でも、どういうものかちゃんとわかっていない人が多いんだ。他にも、100人に1人くらいは吃音のお友達はいるから、たぶん、△△小学校だったら、ひとつの学年にだいたい1人くらいはいる感じなんだよね。だから◯◯ちゃんのことはもちろんだけど、それだけじゃなくて、他のお友達をたくさん教えてる先生たちにもね、少しでもわかっていてほしいなと思っているから、お話させてもらいたいなと思っているんだよね」

と、くわしく説明することができるようになった。

そうした説明を繰り返すうちに、娘も、そっか、大人でも知らない人が多いのかー、とわかったのか、その後に他のコミュニティで話してもいいか聞くときに、「うん」と自然にOKするようになったと感じる。

ただ、本人の吃音への理解についてまだ年齢的に理解しきれていないことも多いと感じているので、いまが平気だからと安心せず、成長とともにコミュニケーションを取り続けていきたい。

ちなみに、本書にはたびたび「移行支援会議」というワードが出てきており、その存在を知らなかった私はこれも大変参考になった。中学入学時などは必要に応じて相談をしてみたい。


最後に、本書を読みたいと思ったきっかけでもあった「吃音理解授業」についても、具体的な例が複数紹介されていてとても参考になった。なかでも一番参考になったのは、巻末資料としてp280からはじまる、小学校高学年対象の授業例。

具体的なセリフややりとりの例がのっていたことが何よりもありがたく、これを参考にいつか先生方に提案してみたいと感じた。

特にp282の、バイデン大統領のスピーチを用いた部分で、コメンテーターがどのような発言をしているかを取り上げ、「大人でも知らない人がいる」、さらにその後、吃音について理解しているコメンテーターが訂正したことに触れ、

「◯◯学校のみんなは、吃音を正しく理解した人になってほしいと思います。知らない人がいればこうやって、正しいことを教えてあげてほしいのです。知っているのって格好いいですね」(p282)

という授業展開の例が紹介されていて、私はこの一文を読んで思わず泣いた。ほんとそれ。

どの学校でもこんな授業を受けることができたら、きっと子どもたちは心の片隅に、このときの記憶を持って大人になっていくと思う。吃音の話は吃音だけの話じゃない。

ひとりひとり抱えているものがある。それについて自分は知らないかもしれないと想像力を持つ。自分にとってなじみがないもの、多数派ではないもの、に出会ったとき、その想像力をもつことができるか。

そんな想像力をもつひとが増えていく、未来を広げたい。そして部分的ではあるけれど、今も少しずつだけれど、広がりつつある。私も微力ながらその流れの一部になりたい。そう思わせてもらった。


総じて、4月上旬に本書を拝読できたことはとても幸運だった。

この時期に、私のなかで迷いがあった啓発の方向性がぱしっと定まったことで、新たなコミュニティはもちろん、これまで続けてきた既存の習い事に関しても、「今、この習い事で困りごとがあるわけではないのですが、新年度ということで学校の先生方や他の習い事でも吃音に関する資料をお配りしておりまして……」と、自然な流れで手紙や資料を渡すことができたからだ。

保護者という立場は、下手したらクレーマーと捉えられるんじゃないかとか、ただでさえ忙しい先生たちに一人のことでこんなこと言っていいのかとか、そういう気持ちもある。

そういう誤解にならないよう、リーフレットを渡すだけでなくカバーレターとして「吃音の人は100人に1人いるといわれている」ことや、「多くのお子さんに出会う先生方みなさんに知っていただけたら心強いと感じ、新年度にあわせて資料をお渡しさせていただいた」ことなどを含めたお手紙も添えた。

親ができることは、本当に草の根だ。

でも今後は、自分の親しい友人たちにも、すきあらばリーフレットを私ながら吃音の話を積極的にしていこうと思っている。何冊かの本を読んで、最終的にいまの自分がやるべきこと、できることは、吃音に対する正しい理解を持つ人が、1人でも多い社会をつくっていくことだと思ったから。


学校現場にいる先生方にも、ぜひおすすめしたい1冊でした。


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