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『注文に時間がかかるカフェ』(大平一枝/ポプラ社)読書記録

2024年2月20日

「そうだ、吃音についてもうちょっと知ろう」読書、2冊目。

1冊めの読書記録はこちら(『どもる体』を読みました)。

今回ご紹介する2冊めはこちらです。

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吃音関連書籍を読もう、と思い立って調べているとき、「この本を買った人は他にこんな本も……」とアルゴリズムでおすすめ表示されたのがこの『注文に時間がかかるカフェ』だった。

注文に時間がかかるカフェのことは、以前SNSでちらっと見聞きしたことがある程度。詳しく調べたことはなかった。でも名前は知っていて、わが子が吃音ということもあり興味はあったので、そうかその書籍もあるのか、と何気なくクリックしてみる。すると著者はあのエッセイの名手、大平一枝さん。しかも発売日が、その日のわずか数日前だった。

私も部屋の本棚には『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』や『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』などの書籍があり、大平さんの綴る世界のファンのひとり。おそれ多くも、「なんと!私が吃音関連の勉強をしようと思ったタイミングで大平さんが吃音関連の書籍を出版されたばかりだなんて運命だ〜」と勝手すぎる解釈をして、迷わず購入した。

手元に届いて、装丁と紙質の佇まいからすでに「好きだな」と思う。

こういう、ちょっととっつきづらい、と思われがちなテーマのものこそ、こうやって自然と手にとりたくなるような、表紙を見せて飾って置きたくなるような佇まいの本にしてくださってありがとう、とまた勝手にお礼を言いたくなった。


本書は実際のプロジェクト『注文に時間のかかるカフェ』にまつわる話を丁寧に取材して構成された1冊である。

序章の書き出しから、大平さんの語り口に惹き込まれていく。

”「吃音って、最初の言葉を繰り返すあれ、ですか」
その程度の認識しかなかった。” 

『注文に時間のかかるカフェ』(大平一枝/ポプラ社)以下同 p6 

大平さんの率直な書きぶりが好きだ。

そして、この本を手にとる多くの読者のスタートラインもきっとここだ。私も子に吃音が出るまでは、まったく同じくらいの認識しかなかった。吃音にかぎらず、自分や身近な人に直接関わりがない事柄への興味関心とは、そのくらいのものだ、と思う。

だからこそ、吃音当事者とは関係のなかった方が書き手となり、吃音当事者への深く丁寧な取材を通して、吃音をテーマにした書籍を紡いでくれることを本当にありがたく貴重なことだと思う。スタートラインが一緒だと、物語に入っていきやすいからだ。

大平さんは当時、仕事が団子状に詰まっているなかで、その時点では”縁遠い”吃音というテーマの仕事を受けるか逡巡されたそうだが、最終的には引き受けて、この書籍が、彼女の著によってこの世に送り出されたことに、個人的にはとても感謝している。

私自身もそうだったように、吃音しかり、その他のいろいろな障害や特性について、“たまたま身近”でないかぎり、国語や算数のように一律に学ぶ機会がないのだ。だから、知らない。

知らないと、誤解やからかいが生まれることがあるし、悪気がない人でも、ちょっと怖がって遠巻きに見てしまったりする。でも正しく知っていれば、タブーじゃなく普通のこととして話題にして、理解していれば、どう行動すればいいかがわかる。

どんな人だって、互いに完全に理解し合うことなんてない。だから吃音があろうとなかろうと、完全に理解しあうことは求めていない。最低限の知識が、いろんな障害や病気、特性に対して、あったらなと思う。自分もまだまだ、知らないことのほうが多い。

知る機会は、ひとつでも、多いほうがいい。


のめり込むように読み終えて思うことは、本書は端々に関係各位への気づかいもちりばめられながらも、丁寧に深い取材を重ねて、正直に、誠実に、つづられた物語だということだ。

「注文に時間がかかるカフェ(以下、注カフェ)」についてはYoutubeなどで動画も数多くあるので、よりそう思うのかもしれないが、読み終えたとき、一本の長いドキュメンタリー映画を見たような気持ちになった。

大平さんの文章によって、淡々と綴られる事実の積み重ねのなかにも登場人物の人柄や表情が浮かんでくる。見ていないはずの場面も映像として立ち上がってくるような臨場感があったから、ドキュメンタリー映画みたいだ、と感じたのかもしれない。

丁寧な取材と誠実に、正直にという文脈でいえば、特に印象的だったのは注カフェの発起人・奥村安莉紗さんの描き方だ。

奥村さんはすでにたくさんのメディアから取材も受けていて、注カフェの関連動画を垣間見るだけでも、メディアから投げかけられる質問に毎回、丁寧に落ち着いて回答している。大平さんは、それらの動画からでは決して伝わりきらない、彼女の根っこにある部分へ触れることを大切に、あきらめず、静かに汲み取り、それをこの書籍に込めたかったのだと感じた。


以上がざっくりとした本書への印象で、以下は、個人的に特に印象に残ったことや、読んでいるうちに付随して思い出したことの備忘録である。

本書のなかに、こんな記述がある。

”私が傍聴したオンラインミーティングの自己紹介の場面で、奥村さんが(言葉につまったとき)相手に先読みして話してほしいタイプですか? 時間がかかっても待ってほしいタイプですか」と最初に尋ねているのを、何度か見た。若者はホッとした表情で、「僕は待ってほしいです」「先読みしてもらっていいです」など、それぞれ答えていた。以来私も、吃音当事者への取材時にあらかじめその質問をなげかけるようになった。”

p26

この一節を読んで、ああ!そういえば私は、娘にそれを確認していないな、と思った。

身内意識というか、近い存在というのはときにやっかいだ。

仕事で人の話を聞くときはいろいろと不躾にならないよう自分なりにあれやこれやと足りない脳みそをフル回転させて配慮しながらお話を聞くのに、わが子となると勝手な思い込みが邪魔をして、前提確認が抜けていた。ライター目線の1冊で、取材という立ち位置が明確にされた1冊だからこそ、我が身にも「ああ!」と気づかせていただいた。

さっそく、本書を読み終えた日、夕飯ついでに7歳になったばかりの娘に聞いてみた。

すると、答えは意外なことに前者、つまり「先読みしてほしい」だったのである。浅い知識ではとりあえず「遮ったりせず最後まで待つ」ことが大事だと思いこんでいた私は目からウロコだった。

もちろん、人によってどう対応してほしいかが違う、というのも情報として目にしてはいたものの、本書の一節がなかったら「あ、本人に確認してないや」と気づけなかったかもしれない。つくづく身内の思い込みというのは恐ろしい。

浅い知識で「理解した気になる」ことがいちばんやっかいだと今までいろんなシーンで痛感してきたはずなのに、まさにそれをやっていた。


同じ食卓の席で、せっかく子と吃音についてオープンに話題にしていたので、最近何冊か本を読んだり動画を見たりしながら気づいた、自分のこれまでの、子への無礼について謝った。

一番ハッとしたのは、本書をきっかけに関連動画をいろいろと見るなかで出会った、ある注カフェの様子を映した動画でのこと。

お客さんとして来ていた「吃音のあるお子さんを育てている親御さん」が、スタッフである吃音当事者の方に「親御さんにしてもらってよかったことや、してほしかったことはありますか」と質問。するとスタッフの当事者の方は、「お店とかで代わりに注文してもらったり……」というようなことをおっしゃっていた。それを見て私は、ああ、そうか、これだったのか、と気づいたことがあったのだ。

それは先日、チェーンの飲食店へ行ったときのこと。

その店にはこども向けのスタンプカードがあるのだが、レジが基本セルフ対応になった影響で、自分から「すいません」と店員さんに声をかけないと気づいてもらえない。結局いつも親が声をかけるのだけれど、ちょっとは自分で人に声をかけられるようにもなってほしいなあという気持ちから、「押してほしいなら自分から店員さんに声をかけなよ〜」「自分から言えないんなら今日はスキップね」と言ってしまったのだ。

それでもだいたい最終的には「じゃあ一緒に言おう」となって結局一緒に言うことが多い。ただその日、子は結局“それならいいや”とでも言うように、何も言わずスタンプカードを私の財布に戻して、プレゼントをもらう機会を自分からスキップした。そんなことがあった。

一応言い訳をすると、わたしももちろん、嫌がらせで自分から声をかけさせようとしていたわけではない。自分自身が子ども時代は内弁慶で、あらゆるお店の店員さんに話しかけることができず、母の袖をひっぱって「聞いてみて」と頼み、そのたびに「自分で聞きなさいよ」と言われて育った。

その記憶から、”いまでは当時の母の気持ちもわかるなあ。自分から人に声をかけられるようになってほしいし、自立してほしいしなあ”みたいな気持ちで、なんの悪気もなく、「自分で店員さんに言ってみなよ」と、たびたび言ってしまっていたのだ。

そのたびに子は「やだ。だって恥ずかしいから」と言っていて、わたしは「だいじょうぶだよ〜」みたいな軽い対応をしてしまっていたけれど。

それは、きっと本当は単に「恥ずかしいから」じゃなかった。

”うまく言葉がでないかもしれない葛藤や不安や恐怖や緊張やいろんな感情”を表す言葉を、つい先日7歳になったばかりの彼女はまだ持ち合わせていなかっただけなのではないかと、いまなら推察することができる。

わたしには悪気はなかったどころか、なんでもかんでも親に頼るより少しずつ自立していけるようにしないと、的な親心でやっていたつもりなのだから、無知とは本当におそろしい。

その事実に気づいてからしばらく凹んだけれど、その日のうちに、いまわたしが吃音について少し勉強していて今日それに気づいたことを娘に話し、今まで店員さんに話しかけさせようとしていたことについて、謝った。

「ただ『恥ずかしいから』じゃなくて、そういう、言葉が出にくいかもとか、いろんな気持ちがあったのかな、って母は今日、学びました」と子に弁明していると、子が「そう!」と嬉しそうな笑顔でこっちを向いてくれた。早めに気づけて本当によかった。


ところで本書には、大平さんの親としての温かい目線や、吃音当事者のみならず、吃音の子を育てる親向けの応援メッセージもところどころにちりばめられている。やさしく、そして切実な目線。

特に四章の「注カフェ香川同行記」では、単にライターという職種の域を超えて、大平さんがひとりの人として場に関わってゆく様子が見てとれて、かつ状況としてもドラマが詰まった展開にどきどきしながら読み進めた。

序章で、最初は「吃音は自分から遠すぎる」と感じたという大平さんが、このときにはすっかり中へ入り込んで、自身の子育ての経験もあり、本当に心を寄せていることが伝わってきて、いち吃音当事者の親としても、いちライターの端くれとしても、他人事ではない思いで読んだ。


この本に書かれてきたこと、育ってきた環境は、今の若者世代のリアルなのだと思う。ただそれを事実として受け止める一方で、個人的には、これからはもっと環境のほうを変えていきたい、変えていけるはずだという思いも持っている。

吃音はあわれまれるもの、大変なもの、という前提を払拭していきたい。

タブーじゃなくて、テーブルに載せて。

娘も小学校入学と同時にクラス全員に伝えたことで今のところは楽しく学校に通っているようだし(もちろんこれからはわからないけれど、少なくとも私は現在、吃音自体についてネガティブな印象はほとんど持っていないので、トラブルが置きたときには、周りの人の理解を変えていくことに自分の力を使っていきたい)、自分の生活圏内でも少しずつ行動していきたいと考えている。

まずは4月の新年度のタイミングに向けて、今まではしっかり話せていなかった、複数の習いごとの先生方にも、一度ちゃんとお伝えできるよう準備中。

世界そのものは変わらなくても、その世界が彼女にとってどううつるかは、変えていけるはず。

そしてそれを変えていくのは結局、周りの人との対話だったり、こうしたブログのささやかな発信だったり、地味だけれど「閉じない」アプローチの、積み重ねなんじゃないかと思って、いま、ぽちぽちとこれを書いている。

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▼ 吃音を知ろう、と思った背景はこちら。

▼ 1冊目の読書記録はこちら。

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