この本のことをとても好きで、ぜひ紹介したい、と思うのだけど、いざ紹介しようと思うと困ってしまう。
何を言っても、野暮な気がするのだ。
気がすると言うか、実際に野暮なのだ。だってそこにはもう完成された言葉と、完成された絵による、完成されたコンビネーションがあって、それについてはもうその完成されたコンビネーションを見てください、としか言いようがない。
谷川俊太郎氏と長新太氏のたましいが一緒にわーいと遊んでいるようなこの1冊を前に、いったい何を言えばいいというのだろう。
ただここはどうしたってわたしの雑記ブログであるから、そこのところをぐうと押し込めて、野暮なのを百も承知で、この『えをかく』(谷川俊太郎・作、長新太・絵/講談社)という絵本についての雑記をかく。
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本を手にとり、ひらく。読み始める。
そこにあるのは、「流れ」だ。
"まずはじめに じめんをかく
つぎには そらをかく
それから おひさまと ほしと つきをかく
そうしてうみをかく
うみへながれこむかわと かわのはじまるやまをかく"
このあたりまで読むと、もう世界が流れはじめている。なんともいえない心地のよいリズム感で、前へ、前へと世界がゆっくりと進んでゆく。この流れが、とても気持ちいい。
けっして、たたみかけて焦らせるリズムではない。ゆるやかに、しずかに、世界は生まれ、つづいてゆく。
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同時にわたしは、とてももどかしい、と思う。
だってこの絵本、言葉と絵を、同時進行でよみたくなるのだ。
『えをかく』はもともと、谷川俊太郎さんの書いた一変の詩を、あとから絵本にすることになり、長新太さんが絵を描いたもの。谷川さんによるこの絵本のあとがきに、
“長さんは一言半句たがえず、詩のとおりに「えをかく」というはなれわざで、みごと難問に答えてくれました。”
とあるとおり、この本で長さんは谷川さんの言葉の流れにぴたりと寄り添うかのように、その流れのなかに絵をのせている。
だからわたしの目は困ってしまう。
詩を読みたいし、絵もよみたい。できるならそれは、完璧に同時であってほしい。だってひとつの「流れ」だからだ。言葉を読んで、その絵を見て、また言葉を読んで、その絵を見て、という順序では、流れがカクカクとぎこちなくなってしまう。だからとてももどかしい。
いわゆる子供向けの“読み語りに向く本”には分類されないのかもしれないけれど、個人的にはこの本こそ、誰かに読み聞かせてほしいと思ってしまう。
語られる言葉を聞きながら、絵を見て、そのふたつが重なりながらゆっくりと進んでゆく流れに、身を委ねてみたい。
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その流れのなかでも、個人的に特に好きだったところを3つご紹介したい。どのみちもう野暮なのだから野暮ついでである。
ひとつめは、最初に風景を描いてゆく描写が続いたあとで
"そうしてやっと ひとりの こどもをかきはじめる”
と、初めて人が描かれだすところ。
そういう意図かどうかはわからないけれど、太古からつづいてきた豊かな自然というものがまずあって、「そうしてやっと」人間を描くのかもしれないな、などと思いをはせてみたり。
そしてこの子どもが描かれていく過程にも、もちろん長さんの絵はぴたりと寄り添っていて。目が、鼻が、口がひとつずつ描かれて、最初は丸だったものがひとりの子どもになってゆき、その子の立つ道が描かれて、前へ前へとまた、「流れ」てゆく。
そのなかにある
"みちのはずれに いっけんの こやをかく
えんとつをかく
まどととびらをかいて なかへはいり おなべをかく”
というところが、個人的に特に好きだったところの、ふたつめ。
特に「なかへはいり」というのがいい。
窓を描き、扉を描くと、その家はもう「ある」のだ。家の中に入るとお鍋がぐつぐついっていて、じゃがいもとねぎを使っておかあさんが料理をしている。
そして個人的に特に好きだったところ、みっつめは、この本の始まりかたと、終わりかた。1ページめ、
“まずはじめに じめんをかく”
から始まり、──最後にこの1冊がどのような言葉と絵のコンビネーションで結ばれるのかは、ぜひ本を手にとって、ご自身の目で味わってみてほしい。
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『長新太 こどものくにのあなきすと(河出書房新社)』の中で、音楽批評家の湯浅学さんが、『えをかく』について書いているものがある。
“(前略)〜のあたりでだんだん胸がどきどきしてきて、「しわくちゃの おばあさんをかく いっぽんいっぽん しわをか」かれたおばあさんの上に四角いワクの中に「なまえ」と描いてあるのを見ながら「それから えのどこかに じぶんのなまえをかく」と読み上げるころには目が涙でいっぱいになっていた。”
「かこうとおもえば」湯浅学
──『長新太 こどものくにのあなきすと(河出書房新社)』p154-155
そして
“最後のページを読みながら俺は泣いた”
『長新太 こどものくにのあなきすと(河出書房新社)』p155
とおっしゃっている。前提として、感じ方というのは人によって千差万別だと思って生きているけれど、でもこの感覚は、なんとなく、わかるような気がした。
いやたぶん実際は、湯浅さんは湯浅さんだけの感覚で、わたしはわたしだけの感覚で、そう思うだけだろう。ただわたしも『えをかく』を何度も読むうち、「泣きそう」な気分がしずかにずうっと心の底にあるような感覚を持っていた。
なんでなのかは、自分でもよくわからない。
先にも少し触れたみたいに、太古からのいろいろな自然の営みが自分のからだのなかを通り過ぎていったような感覚になるからなのかもしれないし、こどもを描くときの一筆、一筆があまりに生き生きと、長さんの息遣いのようなものが感じられるせいで、その長さんが少なくとも今この世と呼ばれる場所には肉体的にもうおられないのだと思うことからくるのかもしれない。
はたまた、おめんやわたがしが登場するあたりから、最後のおまつりの描写にかけて、脳内でピーヒャラ〜と勝手におはやしが流れ始めて、こどもだったころのいろいろを思い出し、ときの流れというものを実感するからかもしれない。そしてその流れが今も続き、この先も、とまることがないということを抱えきれなくなるからかもしれない。その全部かもしれない。
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ところで上の湯浅さんの文章のなかで引用されていたある一節を読み、私は感銘を受けた。
本来はその原典となる引用元をあたるべきところだが、ひとまずはそこからさらに引用という形で失礼することをお許しいただきたい。
“しゅんちゃんは『野原に寝っころがって、青空に流れる雲を眺めてると、雲がとまって自分が動いているように感じることがあるでしょ。あの時のスピード感覚っていうのはいいね』などと言う。しんちゃんは、こんどの絵本は、そんなスピード感覚で描いてみよう、と決心する」”
(原典:『飛ぶ教室』15号、85年刊)
(引用元:『長新太 こどものくにのあなきすと』p155)
ああ、と思った。
そうしてもういちど、はじめから読み返してみると、たしかに、さっき感じていた「流れ」は、上で言われるようなスピード感覚なのだ、と思った。そしてそれがひとりで読む形では存分に味わえないことがやっぱりもどかしかった。人間の目が、一度に一箇所しか見られないことが不自由だと思った。
しゅんちゃんとしんちゃんが共有したそのスピード感覚を、何度でも、味わいたくなって、何度もページをめくった。
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余談だけれど、6歳の娘に寝る前に何度か読んでみたら、彼女はいつも途中ですうと寝てしまった。
もっと長い話でも最後まで聞いていることもあるから、やっぱりこの「流れ」が、雲のスピード感が、心地よすぎるのかもしれない。読み聞かせの形でこの本に触れられる娘、いいなあ!
(おわり)
※これを書いている現在、「取り扱いがありません」表示を見て、ああ今は買えないのかあとしょんぼりしていたら、アマゾンや楽天で新装版の予約情報が出ているのを見つけた! 2023年4月13日に出版予定らしい。そして、
1973年に刊行されてから長らく愛されてきた、谷川俊太郎と長新太の両巨人が組んだ絵本を、この度、貴重な原画を新たに撮り下ろしたデータを使用し、新装版として刊行。
2023年4月には「谷川俊太郎の絵本」展が東京・PLAY!MUSEUMUを皮切りに全国巡回予定、この展覧会でも『えをかく』が紹介されます。両巨人の才能の出会いを、この一冊で楽しめる絵本。(amazon商品説明より)
とのこと。なんと。この展示会もぜひ足を運びたい。
ちなみに『えをかく』は、先日書いた荒井良二さんの『ぼくはぼくのえをかくよ』とも、通じるものがあるような気がしました。空気感はまったく違うけれど、根底に息づいているものは重なっているような。よければこちらものぞいてみてください。
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『ぼくはぼくのえをかくよ』(荒井良二/学研教育出版)【偏愛絵本紹介】
本日は、言わずもがな大好きな荒井良二さんの1冊より。 『ぼくはぼくのえをかくよ』(荒井良二/学研教育出版)です。なお、荒井良二さんや長新太さんなどの偏愛絵本についてはどうしても書きながら好きがあふれて ...
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