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洗濯機のフタの向こうがわに

「しわしわが発掘された」

朝、夫がおもむろにそう言いながら、薄緑色のシワシワをつまんで持ってきた。

ひと目見て、ああ!と思う。

あれは、私がこの春に買って、1、2回履いたら片っぽしか見つからなくなってしまった靴下……の、もう片っぽ。

「あー!すごい、あったんだ!」

私は驚嘆の声をあげつつ、「どこにあったの?」と聞いてみる。

夫:「洗濯機の、フタの、向こうがわに落ちてた」

私:「そうなんだ。なんか、タイトルになりそう。『洗濯機のフタの向こうがわに』って」

夫:「いや、なるかなぁ〜」

私:「なるよ。エッセイとかの」

夫:「うーん」

私:「それにしても、やっぱり、神隠し的に思われることって、こうやってだいたいカラクリがあるものだよねー。ん?カラクリってちょっと違うな。なんというか」

夫:「ただ単に『なくしたものって、どっかにあるよね』ってことじゃない?」

私:「あ、はい……」

“なくしたものって、どっかにあるよね”。

このフレーズを聞いたとき、私の脳裏に浮かび上がったのは、中学時代の担任教師のくちぐせである。

理科教師である彼は、当時、50代くらいだっただろうか。白髪の目立つ年代で、いわゆる教師然とした規律厳しい感じとはほど遠く、どこかひょうひょうとした、それでいて優しいまなざしの、つかめないひとだった。

そんな彼のくちぐせが、「物質は、なくならない」だったのである。

先生:「あのプリントはどうした?」

生徒:「なくしました」

生徒:「物質は、なくならない」

こんなやりとりが、教室内では何度繰り広げられただろう。ポイントは、これは真理である、という達観した表情をつくり、ゆっくりと威厳を醸して発することだ。

物質は、なくならない。

たとえばプリントという紙なら、燃やされて灰になろうが何かに分解されようが、形を変えて存在はしていて、消滅することはない。

もちろん「プリントをなくした」と言っている生徒は「物質的に消滅しました」と言っているつもりはないのだけれど、先生もそれを承知で飛ばしていた理科ジョークだったのだろう。

当時は思い至らなかったけど、ひとりぐらい、「プリントですか。物質的にこの世界に存在していることだけは確かなのですが、それが今どこにあるかわからないんです」と答える生徒がいたらよかったなあ。

そしたらあの先生は、穏やかに目を細めてほっほっほっ、と笑ったかもしれない。

洗濯機の向こうがわには、いろんなものが落ちている。

たとえばかたわれの靴下とか、中学の理科教師の思い出話とか。

物質はなくならない。おそらく、記憶も。

目の前からはなくなっていても、脳内のどこかにはあって、ふとしたきっかけでその引き出しを開けることができたりする。

もしくは、脳内のどこにもないとしても、それは形を変えて、自分の血となり肉となり、存在しているのだ。赤ん坊のころや、胎児だったころに思いを馳せれば、さもありなんと頷ける。

そして生物的に死を迎えても、物質的にその肉体は灰となって世界へもどり、人柄もだれかの記憶や肉体となって多かれ少なかれ、受け継がれて、あたらしい世界をいろどってゆく。

きっと、そういうことでしょう? 先生。

 

(おわり)


おまけ:
『洗濯機のフタの向こうがわに』がタイトルになるかぁ?と夫が言っていたので、いや、俄然なるわ!と思って勢いで書いたエッセイです。とりあえずエッセイのタイトルにはできたので、しばらくしたらこのエッセイを含むいくつかを収録した日常エッセイZINEを、『洗濯機のフタの向こうがわに』ってタイトルで出したい。

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