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余裕と余白

すべては余裕とか余白が大事なんじゃないか。

おそらく現代人の多くが一度は思ったことのあるそれを、7周くらいまわってまた最近、思っている。

先日、とあるオルタナティブスクールの見学に行き、代表の方にいろいろとお話を聞かせてもらった。

そのなかにも、余裕と余白の話があった。

それはわたしが「将来どんな生き方をしたいか、子どもたちが考える機会を、設けていたりしますか?」と質問したときのこと。

その方は言った。

「特にこちらで設けてはいないんですよ。でもこの前ある子が、『将来どう生きていこうか、ってことを最近考えるようになった』と言っていました。

たぶん、ここにいる子たちは、小学校5、6年くらいになってくるとだんだん、ひまになってくるんだと思います。言い換えれば余裕や、余白が出てくる。すると、自分の興味のあることを勝手にやりはじめるんです。ある子は本を読み、ある子は絵を描き、ある子は筋トレしはじめたりする。

時間があると、じゃあそのなかで、自分は何をするかを考える。それは、学校という枠がなくなった先で、自分はどう生きるか、につながってくるんじゃないかと思うんです。

いわゆる日本のふつうの公立小学校に通う子どもたちは、授業や宿題、塾や習いごとに忙しすぎて、みっちりスケジュールをこなすのでせいいっぱい。だからなかなか、そんな余裕がなくて。ひま、って、すごく大事なことです」

私が頭のなかで勝手に補っているところもあるかもしれないけれど、だいたい、こんなニュアンスだったと思う。

自分の実感値としても共感するところがあって、うんうん、うんうんと頷きながら聞いていた。

別のあるとき、小学生の子をもつ友人に、保育園から小学校に入学してからの変化について、たずねたことがある。

そのとき、彼女の口から最初に返ってきた答えは、「うーん……、疲れてる」であった。

私はそうかあ、そうだよなあと現代の小学生を理解するそぶりをしつつ、素直な感情としてはやっぱり軽くショックでもあった。そうか、疲れている、かあ。

オルタナティブスクールの方のお話を聞いたとき、そのときの記憶が引っ張り出されたような気がした。

忙しい、疲れている。

それってつまり、日々を「こなす」だけになってしまうということじゃないだろうか。そして5歳の子を持つ自分も、自分の子を、そこへ今から、送り込もうとしているということか。

そうして日々をこなして、たとえ高校、大学と(日本の世間体としては順調に?)進んでいったとして、学業という枠がなくなったとき、そこに残るものはなんだろう。

どうしても、もやもやと考えてしまう。

かたや、子どものころから自分の興味と向き合う余白があって、自分が見つけた「好き」に時間を費やすことを選択でき、もしかしたら高校や大学に通わず、むしろ自分で仕事をつくって、それを生業として生きてゆく生き方もある。

後者が一概にいいという気もなくて、もちろんその子にとっての興味や「好き」が医学や研究など学問に向くなら、それは進学校や大学を選択することを応援したいとも思う。

ただ思うところは、進学校や大学を選択している子の何割がその進路を自分の興味の「好き」として選択しているか、だ。

勉強が「好き」なら、勉強してくれたらいい。でもそれ以外の何かが「好き」なら、それをつぶしてしまっていいんだろうか。宿題が出されたら、それを「やりなさい」とせきたてる自分が想像できてしまうからこそ、ためらう。

一律に課される宿題を一律に同じペースでこなさせることは、ほんとうにわたしのしたいことなんだろうか。

そこで得られるものも、もちろんあると思う。日本の学校で進学していくための知識と、学校という閉じた世界における評価と。

でもその時間の費やし方や、思考を強要することで、同時に失われてゆく感性や考え方は、ほんとうに失わさせていいものなんだろうか?疑問はぬぐえない。

学校の授業やそこから出る宿題に、彼女の貴重な"子ども時代の時間”を費やすとして、それは彼女の目指したい未来につながっているのだろうか。むしろ、目指したい未来を考えられるような「ひま」をなくしてしまっているだけなのではないだろうか……?

本来なら、まず興味や関心を起こすような、これをもっと知りたい、学びたいと思うような体験をする「ひま」があって、そこからそれに必要な知識をつける時間があって、その延長線上に、目指したい未来がつながっているのではないだろうか。

自分自身が大学を出てからいわゆる会社に入るタイミングで感じた断絶を考えると、既存の小学校に彼女を送り込むことに、どうしてもためらいが生じる。可能性のかたまりから、可能性をそぎおとしてゆくのは、いったいどちらの選択なのだろう。確信をもてずにいる。

ただ、今のところは、保育園の友達と同じ学校に行くことを楽しみに口にしている子の言動もあり、なんとなくこのままだと普通に公立小学校へ入ることになりそうだ……とも思っている。

でもその先で、マイペースな彼女がもし、つらいと思うこと、違和感が拭えないことが出てくるのであれば、そのときはべつの選択肢をとりたい。既存の学校だけが選択肢ではないことを、親である自分自身も実感値として持っておきたい。

挫折経験を味わってからではなくて、フラットな状態のときに、見ておきたい。

そんな気持ちから、いろいろなオルタナティブスクールを見学したりしてみている。

余裕と余白の話にもどると、これは大人でもそうだ。

怒りとは縁遠いはずだった自分は、子が生まれてから一気に怒りっぽくなった。ちょっとしたことですぐ、イライラしてしまう。最悪だ。そんなはずじゃないのに、イメージの中のお母さんは、ニコニコうふふと笑っているはずなのに。

それはなぜかといえば、ひとことで言うなら、余裕がなくなったからだ。

もちろんこまかな背景はほかにもいろいろある。でもたいていのことは、自分に余裕や余白があれば、笑い飛ばせたりするものなのだ。

たとえばおねしょひとつとっても、朝から外出の必要な仕事があるワンオペの朝なら「あーもう最悪!!なんでよりによって今日!!」とイライラが脊髄反射で出てきてしまうし。

しかい気の許せる友人が泊まりに来ていて焦ることのない休日モードの朝なら「あはは!昨日○○ちゃん来たからはしゃぎすぎちゃったね〜」と笑い、むしろこれもよき思い出と皆で笑い合いながら布団を干すだろう。

まったく同じ出来事をやらかされたとしても、余裕があるかないかで、自分から出てくる言葉は180度、変わってしまう。

育児にかぎらず、仕事だって余白や余裕は大事だ。

クライアントワークだけでスケジュールがみっちりと埋まって〆切に追われるだけになってしまっていると、「こなす」力だけがついていくのがわかる。「その作業のプロ」を目指しているなら、その時期はそれで何も問題ない。

でも、もしそこにちょっとでもズレがあるなら、軌道修正をしたりする必要がある。ズレどころじゃなくて別の方向性なら、舵を切る準備をする時間も必要だ。そもそも、それについて考える時間が必要だ。

それが、余裕や余白と呼ばれるものだと思う。

案件と案件の合間など、ふと、数日余裕が生まれるタイミングがあると、これでいいんだっけ、と考えることがある。

日々こなしているものにも、やりがいはある。評価もある。でもその先に自分の望む未来があるのか。定期的に見つめ直して、ずれているなら修正して、また日々を進めて、また修正して、また動く。

「何もすることがない」余白の時間は本当に大切だ。

そこで自分の心のなかにふっ、と生まれてくることに、実はいろんな答えがあったりする。

子どものころ、まっしろな画用紙にクレヨンでぐちゃっ、と一本の線を描いたことは、誰にでもあると思う。その瞬間、わくわくした。

そこからぐいぐいとクレヨンをひっぱって、だんだんとよくわからないなにかが重なり合って、色が増えて。ひとつの新しい世界をその画用紙のうえにかたちづくってゆくとき、もっと、わくわくした。

いま目の前にまっさらなキャンバスがあったら、いまの自分は何を描くだろう。

あなたは、何を描くだろう。

使いたいことに、時間を使おう。状況によっては、すぐにはそれがむずかしいこともあるかもしれない。それなら、少しでもそうできるように、いろんなことを少しずつ、変えてゆけばいい。ときにはじっと、ときが過ぎるのを待つことも必要かもしれない。

でも、ずっと不可能ということはきっと、ないと思う。変化の先で、余白をもとう。

自分のなかに、“ひま”をつくる。

そのときに感じる欲求を、無視せずにいたい。

 

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