この前、学生時代からの友人と5年ぶりくらいに話した。
こちらが遠方に引っ越してからもうずっと会えていなかったのに、コロナ禍で当分会えないしzoomで話そうよとなるの、おもしろいなと思う。
でも純粋に楽しかった。やっぱり友だちはいいもんだ。
さて、そのリモートお茶の終盤、互いの最近の趣味について話していて、わたしは絵本の話をした。
その流れで、わたしの中で勝手に最高峰だと偏愛している長新太さんの『そよそよとかぜがふいている』を画面ごしに友人にシェアしたのだけれど。友人にもその世界観が伝わったらしく、画面の向こうでゲラゲラ大笑いしてくれて、とても嬉しかった。
案外いいもんだな、リモートお茶。
今回、ふだん絵本になじみのない相手に対して絵本を読み聞かせるという体験をして、「ああ、だからわたしは絵本が好きなのかもしれない」とあらためて思うことがあった。
いや、前々から感覚としてはあったけど、それがことばになったという感じ。
それは、絵本の世界では「おとなの前提がすっとばされていることが前提」、というものだ。ちょっとまわりくどいか。簡単に言うと、前提が自由ということでもあると思う。
長新太さんのぶっとび具合にはいちばん惚れ込んでいるけれど、一見まじめなというか、まっとうなストーリーがある絵本だって、よく考えたらうさぎやライオンがしゃべったり、肉食動物も草食動物も関係なく友だちになっていたり、人間とだって自由におしゃべりしていたりする。
そしてそれが、何の前提もなく描かれる。……ことが、むしろ前提になっている。
その自由さよ。
人間の世界があって、その裏には実はこんな世界があります。とか、そんな前置きだってないもののほうが大半だ。
1ページ目から、当然のようにうさぎはしゃべる。
それに対して、たとえ大人ですら「あ、この絵本はうさぎがしゃべる、いわゆるファンタジーなのね!」とすら思わないはず。映画やドラマだったら「これはファンタジーだね」とジャンル分けするところをだ。
絵本の中にもリアルの世界だけを描いたものもあれば、ノンフィクションもの、写真絵本だってあるけれど。いちいちそれをカテゴリ分けしようとも思わない。フィクションでもそうでなくても、わたしたちはただ「絵本」と認識している。
つまり、1ページ目でその絵本が示した世界観がすべてなのだ。
それが人間のリアルなお話でも、草食動物と肉食動物が友達として楽しくおしゃべりしているお話でも、お野菜がしゃべっても、いいのだ。そこに対して突っ込もうとか、思わない。
それが「絵本」という世界の自由さで、だからこそわたしは絵本に惹かれるんだな、と感じている。
それは言い換えると、「こうあるべき」から離れる、離れさせてくれるということだと思う。
もちろん絵の持つ芸術性とか、短文の持つリズム感とか、そういった複合的な魅力が相まって、わたしは絵本という媒体に惹かれているのだけれど。でもたぶん、もっとも惹かれる部分は、ここなんだろうなあ。
美しい絵があって、とっても楽しくなる文があって。それだけでもとっても魅力的な絵本ではあるけれど、わたしの中ではもうひとつ、その絵本の世界観の自由さが、個人的な好みの中に大きな割合を占めている気がする。
ああ。だからこそ、わたしの中では長さんの『そよそよとかぜがふいている』が最高にクールなんだろうなぁ。
この爽やかなタイトルの絵本の中に、まさかあんなにぶっ飛んだお話が待っているだなんて。思わないもの。ねえ。