2週間ごとに家族分の貸出カードでどっさりと絵本を借りてくるのだけど、今回借りてきた中でさっそく娘のお気に入りとなっているのがこの『これは のみの ぴこ』。
そもそもはわたしが、図書館で表紙が見えるように展示されているのを見かけて、手にとった絵本。
ちなみにこの絵本、個人的には表紙の時点で期待値がすでにふりきれている。
まず、この絵の思い切りがすばらしすぎる。近くでようやく見えるくらいの小さな黒点と、それを指差す手。そこに『これは のみの ぴこ』というタイトル。さらには作・谷川俊太郎さん、絵・和田誠さんというお名前が連なれば、手にとる前からどうしたって期待が高まる。
そうしてぱらぱらとめくってみれば、すでに高かった期待もすこんと飛び越えて、あー、気持ちよい!ってくらいのホームランをかっとばしてくれる内容で。
こういう言葉遊び、子どものころ好きだったなぁという気持ちと、きっと娘もこれ、好きだろうなぁという気持ちで借りていったのだった。
その勘も今回は当たったようで、家に帰って一度読み聞かせたらなかなか気に入ったらしく、その後も繰り返し「これ、よんで!」と持ってきている。
内容はというと、タイトルのとおり
これは のみの ぴこ
という、のみの絵が描かれている見開きの1ページからはじまって、
次のページでは、
これは のみの ぴこの
すんでいる ねこの ごえもん
と「ねこの絵」になり、さらに次のページでは
これは のみの ぴこの
すんでいる ねこの ごえもんの
しっぽ ふんずけた あきらくん
となって「あきらくんの絵」が描かれる……という具合に、ひとつの文章がどんどんとつながりながら、次々と新しい場面が展開されていく、というもの。
家の中の身近なシーンからはじまったと思ったら、いつのまにか「ぴんぽんを する おすもうさん」が出てきたり、「おうむを ぬすんだ どろぼう」が出てきたり。お話は予想しなかった方向に、でもちゃあんと一続きでつながっていく。
そして最後は、1ページまるごとが「何か」の説明に費やされるくらいの量で文章がつながっていくわけだけど。その最後の着地点も「これか!」っていう気持ちよさがあって、とてもよいのだ。
ところでそうやって言葉がどんどん連なってゆくというおもしろさ、自分が子どもの頃にも好きで、よく遊んだ覚えがあるなあと思った。
「わたしの飼っている犬の、おもちゃの、ボールの、黄色に似ている色の、バナナの、とれた外国に住んでいる人の……」みたいに、際限なく「の」でつなげていくような遊びとか。
もちろん「わかりにくい」文章なんだけど、言葉として成り立っていないか、と言われるとそんなことはなくて、成り立っているわけで。そういうちょっとしたおかしみを含んだ言葉あそびは時代を超えて、やっぱり子どもが好きなもののひとつだと思う。
そしてもうひとつ、子どもたちがこの絵本を気に入る要素は、「音読している大人のほうがおもしろがる」だったり、もっというと、「音読している大人のほうが後半になると息を切らしてだんだんいっぱいいっぱいになっていく!」というところにあるんじゃないかな。
それこそ後半になると、文中に「、」がなくても自主的に息継ぎを繰り返さないと、とても読みきれない文量の「一文」になっているから。
娘は、1ページごとに読み手であるわたしの顔を振り返って「おもしろいねー!」と言うのを、全ページで繰り返していた。わたしがだんだん疲れていく様が、かしら?!
「言葉が連なっていくおもしろさ」と、「それに翻弄されていく読み手の大人」というおもしろさと、両方あるんだろうなぁ、という気がした。
言葉が連なっていく絵本はきっと他にもいろいろあると思うけれど、どろぼうが出てきたり、そのどろぼうにトマトをぶつけるやおやさんが出てきたり、「一文」のはずなのにその中に子どもを惹きつけるドラマと遊び心が詰まっているのが、さすがの谷川俊太郎さん。
そしてその世界に、強すぎもせず弱すぎもせず、絶妙にこれぞ、とぴたりの温度感で寄り添う和田誠さんの絵。おふたりの信頼関係のあらわれだろうか、読んでいてどこまでも安心感があるのは。
こうやって大人のわたしがうだうだ言うまでもなく、この絵本の魅力は子どものほうがよくわかっていると思う。そしてまた「読んで」と持ってくる。
きっと娘が自分でひらがなを読めるようになったら改めて、また何度も何度も、読んでみたくなるだろうな。