エッセイ 日々の思考 育児

6歳

2023年10月12日

6歳というのは、実に微妙な年齢なのかもしれない。

特にわが子は早生まれなので、小学1年生の後半に入ったいまも「6歳」だ。

6歳だけど、小学校1年生。小学校1年生だけど、保育園や幼稚園でも同い年がいる。

そんな複雑なお年頃、6歳。

先日遊びに行った公園では、ふわふわのトランポリンみたいな遊具が年齢別で2つあり、幼児用のほうは「6歳まで」と看板が立っていた。

娘は6歳といえど小学生だから、一応「『小学生までOK』のトランポリンに行ったら?」と声をかけてみる。すると、「まずこっち(幼児用)で遊んでから、大きいほうにいく」と言う。

まあ、そうか。子の性格を考えると、いきなり大人数のお兄ちゃんたちがいるほうに入っていくのは少し緊張するのかもしれないし、事実「6歳まで」には反していない。じゃあ小さいほう(幼児用)で少し遊んでおいで、と送り出した。

ぽいん、ぽいん。

ぽいん、ぽいん。

結んだ髪の毛を大きく揺らして飛び跳ねながら、はじけんばかりの笑顔を送ってくれる娘。

ああ、無邪気そのものだなあ。

それに、こうやって嬉しいときに親に視線を送ってくれるのも、きっとあと数年にちがいない。切ないねえ……。そんな思いを心の内で転がしていたら、「ああ、ぎりぎり幼児だ」というフレーズが頭に浮かんだ。

ぎりぎり、幼児だなあ。

娘はもう小学生になって半年経つから、3、4歳の子たちも遊ぶ幼児用のトランポリンでは浮いてしまうのではないか。そう思ったけれど、実際に入ってみればどうやら「ぎりぎり馴染んで」いる。

体は確かに大きいけれど、なんというか、動きのぎこちなさや、表情のあどけなさはやっぱりまだ「小学生」より「6歳」がまさっている、そんな感じ。

きっともう来年は、この集団の雰囲気には馴染めないんだろうな。でもいまは、ぎりぎり、幼児の延長。

わかったつもりでいたけれど、ほんとうにいまが過渡期であることを再認識する。

少しずつ親の手を離れて、確実に自分の世界を築いていっている。でもまだぎりぎり、親に自分から甘えたくなる気持ちをかくさない、そんな6歳。

とはいえ、この春から小学生になった子の成長は、はたから見ていてもずいぶんと大きかった。

もともとがマイペースで受け身がちな娘のことだから、就学前はいろいろ心配したけれど、今のところはたくましく、楽しそうに学校へ通っている。

春までは全然乗れなかった自転車も、友達に触発されたのか(今までは「自転車練習したら?」と言っても一度転んだ恐怖ですっかり遠のいていたのに)、毎日のように「自転車練習する!」と飛び出していくようになり、夏には乗れるようになった。危なっかしいなあと思っていたペダルをこぐ足どりも、秋にはずいぶん安定してきた。

「友達と遊ぶ」も、小学校に入ってから広がった彼女の世界のひとつだと思う。

保育園時代は、周りの子たちが自然と「友達と遊ぶ」世界へ入っていくなか、娘はなかなかその輪には入らず、ひとりで遊んでいるタイプだった。それがいまでは、毎日のように「◯◯ちゃんがね」「△△ちゃんがね」と言っている。

実際に、通学途中に友達と会って手をつないで登校したり、一緒に帰ってきたりするシーンを見たりもしていて、ああ、本当にちゃんと自分の世界をつくっていっているんだなあ、と感じてもいる。

そういえば、毎日びっくりするくらい出る宿題に対しても、夏まではかんしゃくを起こしがちだったけれど、最近はだいぶ自分から取り組めるようになってきた気がする(ところで私は、自分が小学校低学年で宿題をした記憶がないのだけど、こんなに宿題って出ていたっけ。今の子どもたちは毎日大変だなぁ……と思っているのだけれど)。

すごいな、小学生。

小学生になると、こんなに変わるんだな。

そんなふうに、4月からの娘の成長ぶりに目を見張ることが多かったからこそ、トランポリンのときみたいなふとした瞬間に「まだ6歳なんだ」と思い出すと、いろんな感情が押し寄せる。

まだ6歳。そう。もう6歳だけど、まだ6歳なのだ。

この前、たまたま昔の写真を探す機会があったのだが、娘が3歳のころの写真を見たら西暦が2020年で、「え、コロナ禍はじまったころ? え? まだほぼ赤ちゃんじゃん? ここからたった3年? 嘘やろ?」と混乱した。

あの、まだふわふわむちむちの体型と、表情のあどけなさが残る3歳から、たった3年。いかに子の成長はすさまじいとはいえ、たった3年という事実は変わらない。

いや、この「たった」という言い方はもちろん大人の視点であり、子どもの感覚を思い起こせば、小学1年生が4年生になったり、中学1年が高校1年になったり、3年のインパクトはべらぼうに大きいものだった。だからやっぱり、子どもたちの時間軸では「たった」なんて言えないだろう、とも思うけれど。

それでもやっぱり、大人である自分から見たら、娘はふわふわむちむちの3歳から「たった3年後」の6歳であり、なんなら生まれてから「たった6年」しか経っていない、6歳だ。

7歳になったら「もう小学生なのに」と叱られてしまうことが、6歳なら「まあ、まだ幼児だからね」と許されるような気がする。おもらしやおねしょだって、まだそんなにめずらしいことじゃない。絶妙な、6歳。

今夜の娘は、習いごともあって疲れたのか、お風呂からあがって髪を乾かしたあと、歯磨き前にリビングでごろんとなり、うとうとモードに入ってしまった。

あらあらと一応歯を磨いてやり、「うがいできる?」というと、何やらうにゃうにゃ言っているけれど、まあ9割がた寝ている。

ああ、もう今日はこのパターンか、仕方ない。

そうあきらめて、夫に寝室への運搬をお願いする。

“疲れてリビングで寝てしまってそのまま寝室に運んで寝かせる”は、小さな子どもを持つ家庭ならよくある光景だろう。子どもってすこんと眠っているから、運ばれたことすら気づかずに朝、なんてことは多い。

しかしなんと、今宵の娘は抱き抱えられると、起きた。起きたのだ。

しかも「まだ歯磨き(のあとのうがい)もしてないのに〜!」と言う。

なんてしっかりしているんだ、やっぱり小学生は違う。

そして洗面所でしっかと立ち、ちゅぺ、と気持ちばかりに口をゆすぎ、でも体は完全に眠たいモードなのでそのまま私にもたれかかり、ナチュラルに抱っこを求める。ああ、こういうところは3歳と変わらない、幼児。

はいはい、と私は重量25キロオーバーの娘をなんとか抱っこして、そのまま寝室へ向かう。縦に抱っこしていたので、寝室で降ろすとき、子の足が長すぎてちょっともたつく。というか危ない。大きすぎるわ。やっぱり小学生。

なんとか寝かせて離れようとすると、「まぁま!」と言ってハグして離さない。なんだよかわいいなおい。こういうところはやっぱり幼児。

こうやって「幼児」と「幼児じゃない」を行き来しながら揺さぶりをかけてくるのだ、6歳は。

そのまま横にぴたりとくっついて、布団をかけて、少しだけトントンしたらすぐに眠った。今日もいちにち、めいっぱいおつかれさま。

ほぼ真上、つまり抱っこひもに入っていたときや、膝上抱っこのときによく見ていたような角度から眺める子の顔のフォルムは、赤ちゃんのころとまだあんまり変わらないように見える。寝顔は特に。

つむった目の先にある、父親ゆずりの長いまつげ。まあるいおでこ。私に似た小さくて低めの鼻。

そうか、6歳でいられるのも、あと3か月か……。

7歳になってからでは書けないことが、6歳にはあるような気がした。まだ幼児時代の手触り感があるうちに、この移ろいの時期を書き留めておきたい。

季節と季節の合間みたいな、見落とされがちだけれど愛しい風景がたくさんある時期。変化はいつだって、突然ではない。それを見逃したくはない。

そう気づいてしまったら、いてもたってもいられなくなって、布団から抜け出してこれを書いた。

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