少し前に家族でメキシカンタコスの店に入り、わたしは気づいてしまった。
私のなかに潜んでいたパクチー欲に、である。
その日は完全に不意打ちだった。タイ料理なら最初からパクチーを期待して入るが、メキシカンな店には特にそんな期待をしていなかったからである。
そんななか店員さんに、「タコスとタコライスにパクチーのるんですけど、大丈夫ですか?」と問われ、目を開く。反射的に「ぜひ」と食い気味で応答した。
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タコライスと言ってもいろいろあるけれど、その店のタコライスは地元野菜をたっぷり載せた、サラダ要素も強いわたし好みのタコライスであった。
パクチーも“申し訳程度にひとかけら”ではなく、ある程度のボリュームで散らされていた。それを見て思う。ああ、パクチーだ。うれしいな。
そう。その時点では、「あ、ひさしぶりにパクチー食べられるの嬉しいな」くらいの落ち着いた心持ちだったのだ。
昔、東南アジアを旅したこともあってパクチー好きは以前から自覚していたけれど、最近あまりに食べる機会がなく、味わいを忘れかけていたのだと、いま振り返ればわかる。
しかしタコライスを口に含んだ瞬間、わたしの脳内では、漫画の吹き出しのように「!」マークが大きく立ち上がった。
パクチーだ! パクチーだ! パクチーだ!
私の細胞たちが、体のなかにあった古い記憶をぐいんぐいんと引っ張り出してきて、脳内に快感物質を放出しまくっている。
そうか、私の体はこれほどにパクチーを欲していたのか。ひとりの外食が遠のいてから、最近あまりに縁がなくて、もはや忘れかけてしまっていたのか。
時々、お腹が空いていないと思っていても、ひと口食べたらそれが引き金となって「あ、おなか空いてたんだ!」と気づくことがあるが、まさにその通り。
パクチーをひと口食べたことが引き金になり、自分が実はパクチーを渇望していたことに気づいてしまった。
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数日後、仕事で大きな街へでかける機会があり、ひさびさにひとりランチの機会にめぐまれた。
駅に降りたち、まだお昼には早い時間だなと思いながら、何気なく通り過ぎようとした店の看板に「塩鶏パクチータンメン」の文字。
吸い寄せられるように入り、迷うことなく注文した。
運ばれてきたパクチー湯麵様は、期待どおり、たっぷりのパクチーが載っていた。うれしい。もうそれだけで、うれしい。
さすがパクチー湯麵様。気をきかせて日本人向けにパクチーを抜いているタイ料理屋も多い中、メニュー名にまでパクチーを堂々と掲げているあなたは希望の星だ。自分でもちょっとどうかと思うコメントを心の内で転がしながらニマニマと写真を撮るくらいには、浮かれている。
きゅうとレモンをしぼり、箸で麺、鶏肉、パクチー、もやしをがさっとつまむ。ここは豪快にいかないと。バランスが大事なんだ。
口に含んだその瞬間、ふたたび数日前の快感物質が脳内からさああああ、と出てくるのを感じた。
パクチーだ!パクチーだ!と喜ぶ体内細胞たちのあれである。
あー、これだよこれ、と思いながらひと口、またひと口。
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食べ終えてひと心地つき、余韻にひたりながら、今しがた体験した幸せの味を反芻しようとする。
やっぱりパクチーってさ、と思い返そうとして、気づく。
あれ、パクチーって、どんな味だっけ。
いや、説明はできる。独特で強烈な香りがある草で、好き嫌いが人によって両極端にわかれて、タイ料理とかによく使われて……。でもそうじゃない。
あの、私の脳内に快感がかけめぐっているときの喜びを、あの味わいを、あの美味しさを、私はどう形容していいのかわからない。さっぱりして美味しいとか、コクがあっておいしいとか、誰かに伝わりやすい形に変換できない。
それどころか、食べ終えてしまった後は、その味わいを自分でも、どうにもうまく思い出せないのである。
いったいパクチーの香りと味とは、なんなのだろう。
やっぱり「パクチーだ!」としか、私には言い表せないのだった。